ヒップホップの教師のブログ

ヒップホップの教師ではありません

映画『ペンギンハイウェイ』のアオヤマ君はお姉さんにまた会えるか?

映画『ペンギンハイウェイ』のアオヤマ君はお姉さんにまた会えるか?

前書きとして、今から述べられることはアニメーション映画『ペンギンハイウェイ』についての“評論”ではなく私の“解釈”であり、
それも特に物語(ドラマ)性についてのことがらであることをここに記しておく。


映画『ペンギンハイエウィ』が『鏡の国のアリス』をモチーフとした作品であるということは特に隠されている事ではない。
ここで根拠をあえて述べるとするなら、
・作中のいたるところで出てくるチェスの存在
・唐突な『ジャバウォック』の登場
等挙げられる。
なぜならそう、この物語は『鏡の国のアリス』の骨格はそのままに、そこに制作(原作)者の解釈とアレンジが加えられたもの、
いわば制作者の作り出したキャラクター達にSF版『鏡の国のアリス』を演じさせたアニメーション演劇であるからだ。

演劇と言うとそれぞれの人物にそれぞれの役があてがわれる。
結論から言うとこの物語においてアオヤマ君は『赤の王』の役でありお姉さんは『アリス(白の女王(キング))』の役である
まずは『ペンギンハイウェイ』と『鏡の国のアリス』の物語的骨格について時系列に沿って話していこう。

 

 

今作ではお姉さんが『ジャバウォックの詩』について知り、眠れなくなって体調を崩し始めた場面から物語は進み始める。いわゆる起承転結の“起”と言うわけだ。
鏡の国のアリス』ではアリスが鏡の国に迷い込んで最初、『ジャバウォックの詩』の文字が反対になっいることを見てそこが鏡の国であることに気づく場面がある。【一章 鏡の向こうの家】
双方において『ジャバウォックの詩』は世界の違和感に始めてて触れるキーとなるわけだ。
お姉さんの内側では『ジャバウォックの詩』を認識したことを皮切りにして自分の存在への疑問の連鎖が本格的に始まったと考えられる。

 

今作ではその後お姉さんとアオヤマ君が海に行こうとし、お姉さんが街から出られないとともにお姉さんが物理法則を外れた力を持つだけでなく、
お姉さんという存在自体が物理法則から外れている(この世界の存在ではない)ことを知る。
これは『鏡の国のアリス』においては、マザー・グースのキャラクターであるトゥイードルダムとトゥイードルディがアリスに眠り込んでいる赤の王を見せ、
アリスは王の夢の中の人物に過ぎないのだと教えるシーンにあたる。【四章 トゥイードルダムとトゥイードルディー】

またその後、順番は前後するが『鏡の国のアリス【三章 鏡の国の虫たち】において『名無しの森』を出た途端にアリスが“人間”であることを思い出した仔鹿は逃げていってしまうのと
今作においてお姉さんがこの世界の存在ではない(“人間ではない”)ことを知った後にしばらくお姉さんに合わなくなる(遠ざかる)のは対比の関係があると言える。

 

これも物語の筋書きからは少し外れるが『鏡の国のアリス【五章 毛糸と水】に『白の女王(クイーン)』が出てくる。
この白の女王は未来のことを記憶している。これは言い換えれば何物にも代えがたい英知を手にしていると言えるだろう。
それは今作においてはハマモトさんに当てはまるものであり、なおかつアオヤマ君が『赤の王』であると考えると、
そのライバルであるハマモトさんの役は『白の女王』だったのではないかと考えられる。

また『白の女王』はその後不意にヒツジに姿を変え『アリス』はそのヒツジから卵を買う。
その卵は次の章においてマザー・グースのキャラクターである『ハンプティ・ダンプティ』に変わり、
ハンプティ・ダンプティはアリスに『ジャバウォックの詩』を解説したのち、塀から落ちて割れる。【六章 ハンプティ・ダンプティ
今作においてはハマモトさん(白の女王)の気を引きたいスズキ君が科学者たちに海のことを話し森の奥へと招き入れるという一連の出来事によって、
奇しくもアオヤマ君の中で思考が繋がり真相を理解する。
またそれと時を同じくしてハマモトさんに力いっぱいぶたれると共に「許さないから」と言われ、鈴木君のこころはぐちゃぐちゃに割れて泣く。
スズキくんの役は『ハンプティ・ダンプティ』である。そうすると生みの親たる白の女王(ハマモトさん)に特別な感情を抱くのも納得いくだろう。
見た目も実際似ている。

 

話を戻そう。
作中においては“海”が見つかった場面からは“海”の活動の活発化とともに物語は一気に加速していく。
その中でも印象的なシーンの一つに、セカイが混乱を極める中いつも二人でチェスをうっていた場所で
お姉さんが問いかけ、そしてアオヤマ君がその問いに答えるシーンがある。
お姉さんの出す問いに対して、いつも的を得た返しができず「謎だ」と繰り返しつぶやいていたアオヤマ少年がついにこの物語に答を示すシーンだ。
その答は「お姉さんがこの世のものではない」というもの。
これによってお姉さんは全てを悟り、そのごペンギンたちの王としてその気の赴くまま進みだす、物語の終わりへ向けて。
鏡の国のアリスでは【九章 アリス女王】において、アリスは自分が女王になったことを悟ったのち
赤の女王と白の女王から問答を受ける。
そしてその後行われたディナーパーティーをかんしゃくを起こしてぐちゃぐちゃにしたのち、アリスはどうやら夢を見ていたらしいと悟り夢から覚める。
【第十章 ゆすぶると/第1十一章 めざめると】

 

 

これらから映画本編の物語骨格が、『鏡の国のアリス』の再演のていを成していることが理解いただけただろう。

 

アオヤマ君は『赤の王』の役でありお姉さんは『アリス(白の女王(キング))』の役である、と主張したがここで一つ疑問が生まれるだろう。
この配役では、アオヤマ君の居た世界こそが夢であり、お姉さんの世界(海の向こう側)こそがアリスの生きる現実世界だということになる。
そうなると「最後にアオヤマ君の居た世界から消えるようにいなくなったお姉さんは元の世界に戻ったのか、それとも消滅したのか」ということである。

私は「お姉さんは元の世界で存在している」と考える。
作中終わりにアオヤマ君が「いつか、会いに行きます」と言うシーンがある。
アオヤマ君とは彼の世界の王(主)の役である。
そんな彼が「会いに行く」と言っているのだ。
それは会いに行くべき相手であるお姉さんが存在することを前提にされた言葉だ。
形而上学的な話になるが、その世界がアオヤマ君の認識世界(夢)だとするなら、彼がそうと認識すれば物事はそうあるのだ。
それは祈りでもあるし、他の作品では“魔法”なんか呼ばれていたりする。
過程(物理法則)を省略し、結果に至ることに、もし唯物主義者の方がいたらピンとこないかもしれないが、
こればかりは「芸術においてはそれが許される」ということで腑に落ちてもらいたい。
まとめると、「アオヤマ君はお姉さんにまた会えるのか?」の答えは「会える」であるということだ。


オタクの皆さんはこの物語を見たとき、きっとゼロ年代の“セカイ系”のことを考えただろう。
その上であの海の不気味な球形が異世界につながっている、というのはまるで超ひも理論を根底とする11次元の並行世界のイメージモデルを連想させる。
というか実際あれは並行世界だったのだろう。
そしてきっとお姉さんは並行世界(鏡像世界)でのアオヤマ君なのだろう。
見た目はオトナだが中身はコドモなお姉さん。
またその逆で見た目はコドモだが中身はオトナなアオヤマ君。
そして鏡の国のアリスがモデルになっている事を踏まえると海の中の並行世界は鏡像世界であると考えられる。
お姉さんがアオヤマ君の鏡像(逆も然り)と考えると、あれほどまでにアオヤマ君が“遺伝子的に”お姉さんに惹かれていた理由にも納得がいく。
人間は自分とは異なる性質を持つ異性に“遺伝子的に”惹かれることは科学的には証明済みなのだから。

f:id:hiphopkyoshi:20180905211132j:plain

 

 

いかがだっただろうか。
私の好きな詩篇、T.S エリオットの「The Hollow Men」にこんな一説がある。

この終末の集いの場所に
我ら交わす言葉もなく潮満ちる渚に集う
かくて世の終わり来たりぬ - 銃声ではなくすすり泣きのうちに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
切望と発作の間
可能性と存在の間
本質と没落の間に影が落ちる
王国は汝のもの

(訳 井上勇)

 

終盤の答え合わせのシーンはまさに「我ら交わす言葉もなく潮満ちる渚に集う」の雰囲気だったと思う。
後半の詩なんかまさにお姉さんの存在そのものだ。

 

もしこんな長いものをここまで読んでくれた人がいたなら、ありがとう。
映画を見た後の高揚のままに、主観的に、感情的に書いたら少し長くなりすぎてしまった。
これを読んで「それは違う!」とか「解釈違いだ!」と思った人も当然いるだろう。
大いに結構だ。
オタクは解釈に生きる生物なのだから。
むしろぜひ君の解釈を聞かせてほしい。
「私の考える最高のアオヤマ君とお姉さんの再開シーン」を聞かせてほしい。
そして『ペンギンハイウェイ』という大好きな作品について一緒に語らおう。

(了)

f:id:hiphopkyoshi:20180905210728j:plain